幸せの形と傲慢さと

 昔、読んだ小説で今でも覚えている場面がある。

 四郎という少年がいた。食べることと、年の近い従妹が大好きで、笑顔の明るいおっとりした子供だった。しかし、小説の最後では、脳を弄られて、自我を無くして、兵器として死んでいった。

 そのことを知った四郎の母親は、四郎の人生は幸せではなかったと、狂気に身を落としながら慟哭した。その母親を前にして、主人公が四郎に思いを馳せて呟いた。

「幸せだったかなんてなぁ、四郎」

 相手の気持ちを考えることや、相手を思いやることが大事だと言われる。

 確かにそれは間違っていない。

 でも、その時に、勘違いしてしまうことはないだろうか?

 きっと相手にとっての「幸せ」はこれに違いないと。

 例えば、もし昼ご飯を食べることが「幸せ」だと思っていたら、誰かが昼時になっても食事をしていなかったら、相手にも昼をご判を食べるように勧めるだろう。

 ところが、世の中には昼ご飯を食べない人もいる。もし、相手が昼に食事をしない人であれば、昼に食事を勧めることは却って迷惑であり、相手は「不幸せ」だと感じるかもしれない。

 つまり、何を「幸せ」といい、何を「不幸せ」というかは、相手の心ひとつということだ。

 慟哭しながら誰かの死を悼むことを「不幸せ」と捉える人もいるし、「幸せ」と捉える人もいる。

 使いきれないくらいの大金を稼ぐことを「幸せ」と捉える人もいるし、「不幸せ」と捉える人もいる。

 他者である自分が、相手の表面的な状況だけをみて、相手の「幸せ」「不幸せ」を判断するのは、傲慢以外の何物でもないだろう。

 ただ、これは相手のことを考えなくても良い、ということではない。

 自分がどれだけ相手のことを考えても、相手にとって必ず最善になるとは限らないということだ。

 だから、自分が相手のためにできることは、相手のことを可能な限り考え、相手のためにできる限りのことをする、そこまでなのだ。

 その先、自分の行動を相手がどう感じるかは、相手に委ねるしかない。

 そして、何を「幸せ」と感じ、何を「不幸せ」に感じるかという選択肢を相手に与えることが、本当の意味で相手を大切にすることでもあるのだ。