「嫌なことはしなくてもいい」
「得意なことだけやればいい」
多様性という名のもとに、そんな言葉をよく聞くようになった。
たしかに嫌なことを無理やりやるのは、ストレスもかかるし、成果も上がりづらい。
だから、「嫌なことはやならくていい」と言われれば、多くの人は納得するだろう。
一方、「嫌なことをやらないのは、逃げているのと同じ。それでは何も変わらない」と言われることもある。
この意見にも「もっともだ」と思わず納得したくなる人も、また多いだろう。
「嫌なこと」というのは、自分が不得意だったり、できないことだったりすることが多いが、その「今は」できないことに挑戦していくことで、スキルを獲得したり、知恵を獲得できたりするからだ。
ここまで考えると、「嫌なことはやならくてもいい」と「嫌なことをやらないのは逃げ」というのは、どちらが正しいのだろう?と混乱してくる。
そこでこの記事では、「嫌なことはやらなくてもいい」と言われる理由と、嫌なことのうち本当にやらなくても良いことと、嫌でもやった方が良いことの違いをお話しようと思う。
「嫌なことはやらなくてもいい」と言われるようになった理由
わたしが小さい頃を思い起こすと「嫌なことでも、頑張って挑戦しなさい」と言われることの方が多かった。
日本の社会では長い間、苦手を克服することで、すべての能力を平均的に伸ばすことが良いとされてきた。
なぜなら、平均的に能力を伸ばすことで、社会に出た後、どんな仕事でも一定以上の成果が出せるからだ。
その社会の風潮が変わり始めたのは、1990年代、日本でも「個性の尊重」という考え方が根付き始めた頃だろう。
平均的に能力を伸ばすより、その人自身の得意なことも不得意なことも認めた上で、その人の得意なことを伸ばしていく方が、個人の持っている可能性を最大限に発揮できるという風に社会の考え方が変わったのだ。
その結果、社会では「嫌なことはしなくてもいい」と言われることが多くなった。
「嫌なことはやらなくてもいい」は個性か?逃げか?
「嫌なことをやらなくてもいい」が、個性の尊重になる場合と、「逃げ」になる場合の分かれ道はどこだろうか?
それは、嫌なことが「自分の目的にとって必要かどうか」だろう。
例えば、将来、サッカー選手になりたいとする。
サッカー選手になるのであれば、当然、ドリブルの練習も必要になる。
ところが、自分がドリブルが大の苦手だったとき、ドリブルの練習を「嫌いだからやらなくていい」といったら、それは逃げになる。
なぜなら「サッカー選手になる」という目的のためには、ドリブルの練習は必要だからだ。
でも、趣味で楽しむためにサッカーをするなら、苦手なドリブルの練習をしなくても逃げにはならない。
なぜなら、「楽しむ」という目的のために、ドリブルが上達することは、必ずしも必要ではないからだ。
つまり「嫌なことをやらない」といったとき、その先にある目的によって、「嫌いなことをやらない」は逃げにもなるし、個性の尊重にもなるのだ。
おわりに
「苦手なことは、やらなくていい」は、自分の目的に関係ないことなら個性の尊重となるし、自分の目的に必要なことなら逃げになる。
だから、大事なことは、自分の目的を自覚し、その目的に照らして、どんな行動をするかを決定することだ。
そうすれば、「苦手なこと」のうち、捨てるものと挑戦するものの区別が付くようになるだろう。



