※この歴史編纂はLiberという国を☆、♧、〇の3人で立ち上げてからの軌跡を記したものである。詳しくはLiber用語及び中の人たちを参照。
2021年5月某日、国家戦略会議「ユグドラシル」開催。
『自分の見たいものを人間は見ている』とするなら、自分が選べば幽霊は見えるのか?という話から、人間の集合無意識の話へ。
☆「ってこと(幽霊が錯覚の一緒ということ)は…」
♧「(超常現象てきなものは)本当にあるかもしれないよ?」
☆「ってことは、僕が作れば会えるってこと?」
♧「会えるっていうか、自分が見たいと思うものを、ビジョン化して、あたかもそこに存在するように見ることはできるはずよ。」
☆「ってことは、幽霊に会える人は、その(ビジョン化する)能力を持ってるってこと?」
♧「持ってるっていうか、ただ単に、異様に敏感なだけだよね。」
☆「え?」
♧「いや、わかんないよ?俺が幽霊を見たことがないから、そのシステムはわからないわ。ただ、そういうことだと思うよってだけ。」
☆「なるほど。じゃあ、教えてもらえばいいの?見える人に。」
♧「だから、教えてもらったからできるとか、そういうものじゃなくね?これ。」
☆「僕もそう思うけど。」
♧「うん。」
☆「可能性の話?」
♧「うーん。……なんだろうね、幽霊論になるの?これ?」
☆「(笑)」
♧「あとは、だから、考え方を変えるっていうのも変だけど、意識の集合体が作り出した幻って話になってくると、また、話は別だけど。長くなるけど。」
☆「いろんな説があるわけ?」
♧「いろんな説があるよ。…いろんな説があるっていうか、なんていうかな、…あのね、これも話すと長いんだよ。」
☆「(笑)」
♧「長いんだよ、マジで。」
☆「つまり、未知の世界だね。」
♧「未知っていうか、未知っていうとあれだけど、人の集合意識が作り出した集合体を見えてしまう人がいるから、噂話が流行るっていうのを、大きく言うと幽霊の話になるけど、長くなっちゃうから辞めよ、って話。」
☆「…ああ。」
♧「わからんだろ?結局、どういうこと?って話になるだろ?」
☆「じゃあ、結局のところ、僕は会うことができないってことね。」
♧「まぁ、俺も☆も会うことはできないだろうな。」
☆「なんだよ、超残念。」
♧「いやいや(笑)超残念っていうか。会わない方が良いんだよ、たぶん。」
☆「え?なんで?」
♧「そういうことなんだよ、たぶん。それだけスペックとしてしっかりしていると思っとこうぜ。わかる?」
☆「(笑)」
♧「見えないものが、普段から見えちゃうような脳みそだったら、大変だぜ、俺ら。」
☆「(笑)そうか。」
幽霊などの不可視の存在が本当に存在するのかというと、本人の錯覚や思い込みという説もあるが、一方では本当に存在をしていて、その存在を見える人と見えない人がいるのは、個体差であるという説もあるだろう。
前者は、幽霊見たり枯れ尾花ではないが、「ある」と思っているから、脳がそこに「ある」ように知覚するということだ。そうであるなら、リアルに脳内にビジョンを作ることができれば、幽霊を見ることができるのかもしれない。
後者は人間の認知能力では知覚できないものが存在していて、そこにアクセスできる人はその存在を見る、というか感じることができるというものだ。
これについてはよく「波」として説明される。
すべての存在は波を打っているが、人間が知覚できる波長域には限りがある。幽霊などの不可視の存在は、人間の知覚できる波長域の外に存在するため、普通の人は感じることができない。不可視の存在が見える人というのは、その波長を感じることができる人なのである。
そうであるなら、その不可視の存在と波長を合わせられるようになれば、幽霊などを感じることができるようになるのかもしれない。
他にもいろいろな説はあるだろうか、不可視の存在に対する見方は、『人間の脳が勝手に作りだしているもの=本来は存在しない』または『人間が知覚できないだけ=本来は存在している』に大別されるのではないだろうか。
私自身は、そういったものを感知する能力がないので、どちらが正解とは言えないが、個人的には後者を採用したいと思っている。
その理由のひとつは、私の瞑想の師が波動によって他者の病気を見つけたりすることができると言われているので、不可視の存在(幽霊やハイヤーセルフなどだけではなく、気功や波動を含めたところ)を、なかなか否定しにくいからだ。
理由のふたつめは、自分の知覚の問題で不可視の存在を感じられないとしたら、もし、そういうものが知覚できるようになれば、世界が広がりそうで、楽しそうだからだ。人間の脳は「ない」と思えば、「ある」ものさえも知覚できなくなる。だから、「ある…かもしれない」と可能性を残しておきたいと思うのだ。
不可視の存在は、理解するものではないので、思考が強い人は感じることができないと言われる。思考優位で生きる現代人である私が、死ぬまでにどこまで感覚を磨けるのかは謎ではあるが、楽しみでもある。