※この歴史編纂はLiberという国を☆、♧、〇の3人で立ち上げてからの軌跡を記したものである。詳しくはLiber用語及び中の人たちを参照。
考えることは細胞の数に比例する?
2021年11月某日、国家戦略会議ユグドラシル開催。
生物は常に自ら選択しながら生きている。例えば、野良猫であっても、どこで餌を食べるか、どこで寝るかなどを選択しながら生きている。なぜなら、生物には意識と行動力があるため、常に複数の選択肢を持っているからだ。
けれども、人間の中にはどうにも選択しているのように思えない、言葉を悪く言うなら、何も考えていないように見る人もいる。そういう人たちは、一体、何なんだろう?
話題はそんな話へ移った。
♧「(生物は)意識してないところで、選択してるってことだよ」
☆「意識しない中で選択しているの?」
♧「うん」
☆「生き物だけ?」
♧「だって、大気の中の酸素とか窒素とかが『今日はあの人間に吸われよう』なんて考えてないでしょ」
☆「それは、それだけの、えーと、行動力がないってだけでしょ」
♧「それ言ったら、じゃあ、生き物と生き物じゃないモノの差って」
☆「行動力」
♧「選択肢を持てるか、持てないかってこと?」
☆「そうそう。『あそこに行こう』っていう選択肢がないだけ」
♧「意思もないはずだけどな」
☆「でも、意思のないことを僕らは選択してるじゃん」
♧「意思のないこと?ああ、意識して(選択してないことがあるってこと)ね、うん」
☆「それは同じじゃん」
♧「同じ?」
☆「それ(意識して選択するかどうか)って細胞の数に比例しているの?単細胞に近づけば、それだけ選択数が減るのかな?」
♧「まぁ、可能性はあるな…」
☆「じゃあ、ちょっと言い方はアレだけど、人間のおバカさんは細胞数が少ないの?」
♧「あぁ(苦笑)それは、また、話が違うんじゃね?(笑)」
☆「あっはっははは(笑)」
♧「でも、あの、びっくりするぐらい何も考えてないヤツっているじゃん、中には」
☆「そう」
♧「俺は何も考えない『無』の状態って作れないから、自分で」
☆「うん」
♧「(俺は考えてることが)ゼロって状態がないから、そういう人たちってどういうシステムになっているのか、すごく不思議ではあるよね」
☆「だからさ、窒素と酸素…」
♧「でも、それ、細胞数とイコールじゃないよね」
☆「比例」
♧「ああ、比例ね」
☆「あの、これ、かなり正解に近くなっちゃうけど、脳の電気信号の問題なんだろうと思う」
何も考えてないヤツは、なぜ考えないのか
何も考えてない人には次の二つのパターンがある。
1 考えようと思っても混乱していて考えられない
2 そもそも考えようと思っていない
考えたくても混乱していて考えられない
頭が真っ白になって考えられない
考えていない人のに中には、考えようとしても、頭が真っ白になって、考えられないという人がいる。
そういう人たちは、簡単に言えば、考えようとしたときに、パニックを起こしているのだ。パニックを起こす理由は、不安や恐怖など、負の強いストレスにさらされること。
強い負のストレスにさらされると、脳内でノルアドレナリンなどの脳内物質が大量に放出される。
これにより身体は血圧を上げたり、瞳孔を開いたりして、目の前の事象に対して、闘争あるいは逃走で対処するモードに移行する。
このモードに移行すると、人間の思考を司る前頭前野の働きが低下するようになっている。
「闘争か逃走か」という機能は、生存の危機に対処するために使われてきた機能である。そのため、この状態に移行するということは、脳が自分の生存に危機が迫っていると判断しているということである。
例えば、歩道を歩いていて、急に車が突っ込んできたとき、いちいち「右に避ける方が良いだろうか?左に避ける方が良いだろか?」と考えたりしない。そんな悠長なことをしていたら、生命の危機を回避できないからだ。
そのため「闘争か逃走か」のモードのときは、判断するために「考える」という時間を必要とする前頭葉の働きが下がるようになっているのだ。
頭が真っ白になるという人は、この「闘争か逃走か」のモード入ってしまうため、前頭葉の働きが一時的に低下し、考えることができなくなっているのだ。
頭が真っ白になるのはなぜか
頭が真っ白になる理由は、いろいろなことを心配しすぎていることだ。
例えば、自分の発言は変に思われていないか、周りの人は自分のことをどう思っているのか、自分はバカだと思われてないか、などなど。
この不安な気持ちや心配が積み重なって脳にストレス反応が出ているのだ。
だから、頭が真っ白になるという人でも、親しい人とゆっくり安心して話しているときは、思考が白くなったりはしないはずだ。
頭が真っ白になる人が「考える」を取り戻すには
「頭が真っ白になる」を改善したいと思うなら、まずは自分の不安や心配な気持ちと向き合い、受け入れる練習をすることだ。
簡単な練習の仕方は、日常生活の中で、不安や心配を感じたときに、ちょっと深呼吸して「自分は不安なんだな」と声に出して言ってみるとことだ。一度、声に出すことで、自分の状態を客観的に見られるようになる。客観的に自分の状態を見ることができれば、自分の感じている感情を自分で受け入れやすくなる。受け入れることができれば、感情は消えていく。
だから、まずは自分の気持ちを「そうか。〇〇なのか」と声に出して、自分の感情を処理する練習をすると、頭が真っ白になる状態から抜け出せるようになる。
そもそも考えようと思っていない
そもそも考えようと思わない人は二つのタイプに分けられる。
1 考える能力が自分にはないと考え、考えることを放棄しているタイプ
2 自分は考える必要がないと居直っているタイプ
考えることを放棄しているタイプ
考えることを放棄しているタイプは、幼い頃に自分の考えや思いを伝えると、親や周りの人から「それは違う」と否定されたために、考えることは無駄だと思った人たちだ。
否定されることは誰でも不快である。だから、その経験が多くなれば、子供はやがて「自分が考えてもどうせ周りの人は聴いていくれない。だから、周りの人の意見に従っていれば良い」と考えるようになる。
その方が自分が否定されるという嫌な経験をする必要もないし、下手をすると周囲の大人からは「聞き分けの良い良い子」として褒められることさえある。
そのような経験を通して「自分で考えない方が良い」という自己認識が強化され、考えることを放棄するようになる。
考えることを放棄している人が「考える」を取り度すには
考えることを放棄している人が「考える」を取り戻すには、当たり前だが、自分で考える練習をすることだ。
そのためには、日常の小さなことから考えてみると良いだろう。
例えば昼ご飯を食べるときでも、なんとなく食べるのではなく「自分は何が食べたいのだろうか?」と自分の気持ちを考えてみたり、「最近の食事で足りてない栄養は何だろう」と食事内容を考えてみたりするのだ。
最初は面倒だと思うだろう。それは仕方がない。「考える」とは元来、面倒なものだからだ。
そして、自分一人で考えることに慣れてきたら、次に自分の考えを他人に伝える練習もしてみると良いだろう。
例えば、友人と旅行に行くとき「自分は○○に行きたい」と自分の意見を言ってみるのだ。
ここで勘違いしてはいけないのは、自分の意見を言うことは、意見を押し通すために言うわけではないということだ。
自分の考えを表現する練習をするために「言う」わけであるから、言葉に出して自分の意見が言えれば、それだけで良いのだ。
だから、自分の意見を無理に押し通す必要はない。友人との関係性を維持するために、譲歩したり妥協案を探したりして、もちろん、構わない。
そんな風に考える練習と自分の意見を言う練習をしていくと「考える」ことに対する苦手意識もなくなって「考える」が取り戻せるようになるだろう。
考える必要はないと居直っているタイプ
考える必要はないと居直っているタイプは「面倒を見て欲しい」という自分の欲求を、成長の過程で、消化できなかった人たちだ。
この「面倒を見て欲しい」という欲求を依存欲求という。
この依存欲求は誰でも持っている。人は、自分の力では食事も取れず、立つこともできない無力な状態で生まれる。そのため、人生の初期段階では、必ず自分の世話を周囲に求める必要があるからだ。
多くの人は、高校生くらいになって、自分の力でできることが増えてくると「誰かに面倒見て欲しい」という依存欲求は弱くなる。その代わりに「自分ひとりでやっていきたい」という自立の欲求が強くなってくる。
ところが、この依存欲求から抜け出せないまま大人になる人がいる。
例えば、子供に召使のように使える過保護な親に育てられた場合などだ。
子供は成長の過程で親や周りの人間との間で、自分の思い通りにならないことを経験する。それにより、他者は自分とは違う存在であることを認識したり、思い通りにならないことを解決するために、自分の能力を高めたいという成長の欲求を得たりする。
しかし、周りの人間に傅かれて育って子供は、不快な体験をする機会がないため、成長の必要性を感じることがない。
また、周りの人間は自分の思い通りに動くことが当たり前だという誤った認識も持つようになる。
そのため、何か不快なことがあったときに、自ら考えて行動しようとは、夢にも思わないのだ。
要は自分が最も心地よい状態で生きられるように考えることも、取り計らうことも、周りの人間の仕事だと思っているのだ。だから、自ら考えることをしないのだ。
そもそも考えようと思っていない人が「考える」こと取り戻すには
そもそも考えようと思っていないタイプは、「考える」ことを取り戻すことは難しい。
なぜなら、自分自身が困っていないからだ。
人の行動原理は、「快を求める」または「不快を避ける」の二択しかない。だから、考えないことで自分が困る事態が起こらなければ、改善するための行動は起こさない。
しかし、ひとつ改善する糸口があるとすれば現実を見ることだ。そして、その現実が自分の望むものかどうかをよく吟味することだ。吟味した結果、少なからず現実と自分の理想との間にずれがあるのなら、そこに違和感を感じるだろう。その違和感を「周りが悪い」などと開き直らずに、その違和感を感じる本当の理由を探ろうするのだ。そうすれば、自分を「考える」ことから遠ざけている未消化の欲求や感情に行き当たる。
今回の例でいえば、自分には考える力がないという無力さや、周りの人間は自分の思い通りになって当たり前だという傲慢さだ。
その感情を消化することができれば、あるいは「考える」こともできるようになるかもしれない。




