生きる意味はあるのか

 生きる意味がない

 生きることに疲れた

 そんな言葉を聞くことがある。

 わたしも、高校生くらいのときは、そんな風に思っていた。

 勉強ができなかったわけでも、運動ができなかったわけでもない。

 でも、特にやりたいことや夢はなかった。

 いわゆる「普通」の高校生だった。

 でも、思っていた。

 生きる意味はあるのか、と。

 高校生だから、誰かを養っているわけでもない。

 兄弟もいるから、自分が死んでも、親も大丈夫だろう。

 だから、自分が死んでも誰も困らない。

 そうであるなら、”この私”が、生きる意味はあるのか?

 と。

 当時は、結局、その問いの答えを見つけることはなかった。

 では、今、生きる意味はあるのか?と、尋ねられれば、次のように答える。

 生きる意味はない、だからこそ、生きる意味はあると。

 人生には、最初から規定された意味はない。

 人生とは、決められた意味を探すものではなく、自分が意味を織り込んでいくものなのだ。

「私たちが『生きる意味があるか』と問うのは、はじめから誤っている。人生こそが問いを出し、私たちに問いを提起しているのだから」

ヴィクトール・E・フランクル

 ヴィクトール・E・フランクルはオーストリアの精神医学者である。彼は、ユダヤ人強制収容所に入れられたとき、希望を無くした同胞に上記のように語ったという。

 フランクルの言うように、我々が人生に問うのではない。

 我々は人生から問われているのだ。

 なぜ、あなたは生きるのか?と。

 どんな意味を人生に見出したとしても、あるいは、なんの意味も見出さなかったとしても、それはあなたの自由だ。

 ただ、どこかの教科書から引っ張てきた意味や、誰かに教えてもらった意味を、自分の人生に当てはめるのは、止めた方が良い。

 余計に虚しくなって、さらに人生の迷宮に迷い込むだけだから。

 自分が“この私”として生きる意味は、”この私”が、自分の中から、作り上げるしかない。

 もし、今、生きる意味がないと思うなら、存分に探したらいい。

 もちろん、探したからといって、人生の意味が見つかるとは限らない。

 しかし、“この私”として生きる意味を見つけ、自分の人生に満足して、人生を閉じるのが先か、あるいは、自分の寿命が来るのが先か。

 そんなゲームに参加していると思えば、灰色だと思っていた人生も、なかなか楽しめるだろう。