何もできないからこそ、存在する意義がある

 大学の授業で哲学を専攻していた。その授業の中で、先生が次のように話していた。

「私の哲学の恩師は、本当に哲学の中で生きた人でした。

恩師は、晩年、病気で目が見えなくなると、本を家族に朗読してもらい、哲学の研究を続けました。

けれども、最後は耳も聞こえなくなり、身体も動かせなくなりました。

わたしが恩師の病室を訪れ『先生』と話しかけて、手を握ったとき、微かに握り返してくれました。

わたしは、その時から思うのです。

目も見えず、耳も聞こえず、身体を動かすこともできず、一体、どんな気持ちで、恩師は最後のときを過ごしたのだろうと」

 授業の内容は忘れてしまった。でも、そのエピソードだけは、今も鮮明に覚えている。

 自分の意識だけを友として、いつまで続くかわからない闇の中を生きる、そうなったとき、あなたはどうするだろうか?

 わたしは、昔から、身体欠損がとても怖かった。どのくらい怖かったかというと、有名な達磨大師のエピソードさえ、聞くのが堪えがたいほど、怖かった。だから、その当時は、とてもではないが、哲学の先生の恩師の最後の心持ちに、思いをはせることができなかった。

 けれども、先日、そういう闇の中でただ在るだけの存在となったときにも、メリットがあることに気が付いた。

 それは、世界に何の影響もしない存在となったときに、はじめて周りの人にもたらすことのできる、大きな気づきがあること。

 また、ただ在るだけの自分に残された最後の繋がりが、人生の中で最も得難い純粋なる思いの具現化であること。

 それは、一般的な言葉で言えば「  」という言葉になるのだろう。

 だから、その「  」を感じながら、哲学の先生の恩師は、最後を迎えられたのだろうと思う。そして、その周りにいた人たちも、自分の中から湧き上がる神聖なる「  」を感じたのだろうと思う。

 もちろん、そういう状況で「  」を感じるためには、それなりの準備が必要だろう。その準備は、恐怖と向き合う技術や,、疑心暗鬼にならない冷静さ、自分への信頼など、さまざまだ。

 けれども、すべての人は、人生最後のとき、自分の思惑だけを友として死に臨むのだ。その時間が長いか短いかは別にして。

 そうであるなら、人生最後のときに何を感じて逝きたいのか、それをよくよく考えて、そうあれるように準備することは、誰にとっても無益ではないだろう。

 「   」を感じて逝くのか、孤独と恐怖で発狂しながら逝くのか、その最後に掴んだものが、自分の人生の集大成ではないだろうか。