※この歴史編纂はLiberという国を☆、♧、〇の3人で立ち上げてからの軌跡を記したものである。詳しくはLiber用語及び中の人たちを参照。
2021年5月某日、国家戦略会議「ユグドラシル」開催。
人間はそれぞれが異なった世界を見ているが、なぜ多くの人はすべての人が同じ世界を見ていると思っているのか。
その理由は。
☆「(多くの人が同じものを見てると思っているのは)なぜだろうね?」
♧「…集団心理の話をするってこと?」
☆「そういうことか。」
♧「多くの人は同じものを見ていると思っているというか、多くの人は同じものを見させられているし、多くの人は多くの人と同じものを感じるように作りこまれてきたよ、生まれてから。」
☆「なるほど。」
♧「だから、(それを話し出すと)義務教育の話に戻るじゃないかよ。」
☆「うん。繋がってるな、相変わらず。」
♧「いや、うん、全部、繋がってるよ。」
☆「つまり、洗脳されてるわけね。」
♧「正直、近いと思う。」
☆「……。俺も洗脳されてる?」
♧「わからん。」
☆「そこ(洗脳されてるかどうか)、わかるの?」
♧「ま、ある程度は。…っていうか、洗脳っていう言い方だよね。洗脳じゃないんじゃないの?」
☆「え!?」
♧「洗脳っていう言い方だよ、それ。」
☆「言い方?」
♧「…洗脳、ねぇ。まぁ、なんらかの固定概念に囚われるという意味では、ある程度、洗脳されているもの仕方ないよ。……それ(固定概念に囚われること)が、全くない人間なんて、いまどき、オオカミに育てられた人間とか、イルカに育てられた人間とか、そのレベルの人間しかいないよ。」
☆「それも、でもさ、イルカに洗脳されてるよね。」
♧「それはそうなんだけど、人間に洗脳されてないっていったら、そう(イルカに育てられた人間とかに)なるよ。」
☆「……(洗脳されないのは)無理なわけね。」
周囲の人間から知識や技術、考え方を与えられることを「洗脳」と言うか、「教育」と言うかは難しいところだろう。
なぜなら、洗脳と教育では使う手法に大きな差がなく、両者の違いに明確な基準がないからだ。
強いて言うのであれば、「相手を都合よく操る意図をもって、洗脳あるいは教育する相手に接するかどうか」ということが、洗脳と教育の分かれ目になるのかもしれない。
しかし、自分では相手を操る意図がなくても、無意識のうちに相手を操る意図を持っている場合もある。
そのため、洗脳と教育の区分は、ほぼ不可能なのではないかと思うのだ。
ただ、自分たちの与えられてきたものが、教育であったか、洗脳であったかは別にして、その与えられた知識や考え方をなぞったり、反発したりすることで、成長した部分もあることは事実だろうと思う。
そう考えると、仮に何某かの意図に操られることを目的として与えれた知識や技術であっても、無駄なものはなかったのではないかと思う。





