※この歴史編纂はLiberという国を☆、♧、〇の3人で立ち上げてからの軌跡を記したものである。詳しくはLiber用語及び中の人たちを参照。
2021年5月某日、国家戦略会議「ユグドラシル」開催。
話題は知恵を持った苦しみから、ミドリムシの話へ。
♧「ミドリムシになったところで、自分がミドリムシになったって実感とか、どうやって生きようとか考えるとか、生きてる実感とか、そういうのもあるかもわかんないぜ、そうなったら。」
☆「だから、良いんじゃん。」
♧「(生きてる実感とかなくて)良いんだったら、それ、存在しなくても良いのと一緒じゃん。だって、考えないんだから。自分が存在しているかどうかもわかんないんだから。」
☆「どういう感じになるんだろうね?」
♧「もちろん、俺もわかんないよ。」
☆「まったく想像できないよね。」
♧「意識はない、考えてもいない、でも息はしている。だから、生きてはいる。そんな感じでしょ。」
☆「楽だよね。」
♧「楽だけど、『なりたいか?』っていったら別だろ?」
☆「なりたいか?そう問われると、答えずらい。」
♧「難しいだろ?だって、自分では何もできないんだよ?動けないし、考えられないし。そうなっちゃった場合って…。なった人しかわからないしね。」
☆「そうなんだよね、そうなった人に聞けないからね。動物にも聞けないしさ。」
二人の話を聞いていて、カウンセラーの養成講座時代に学んだロボトミー手術という胸糞悪いものを思い出した。
ロボトミー手術は、1930年代に行われた精神疾患の治療のための脳の外科手術であり、精神疾患の改善の裏に感情の喪失という副作用があったと言われている。
なぜ☆と♧の話には直接的に関係はないロボトミー手術を思い出したのかというと、苦しみであれ悲しみであれ、感覚や感情はその人の価値観やアイデンティティからなるものであって、それは重くても自分で人生の終わりまでもっていくことが必要なのではないかと思うからだ。
もちろん、無暗に苦しめということではないし、苦しみを軽減してはいけないということではない。
ただ、自分が自分として感じるものを受け入れ、自分の中でそれらの感覚がある理由を探していくことが、生きることなのではないかと思うのだ。





