※この歴史編纂はLiberという国を☆、♧、〇の3人で立ち上げてからの軌跡を記したものである。詳しくはLiber用語及び中の人たちを参照
学校や会社、家庭などでは、「人は平等だ」と教えられる。けれども、疑問に思ったことはないだろうか?
「本当に平等だろうか?」
よくよく周りを見渡してみれば、容姿が優れている人もいれば、論理的な思考に秀でている人もいる。オリンピックに出るような高い身体能力を持つ人もいれば、小学生の頃から作曲をするような芸術的な才能を持つ人もいる。
逆に、どんなに努力しても早く走れない人もいれば、身体が弱くてすぐに体調を崩してしまう人もいる。どんなに想像しても他人の気持ちがわからない人もいれば、他人に共感しすぎてつらくなる人もいる。
私はずっと「人は平等」ということを違和感を感じつつも、「平等だと思わなければいけない」と信じようとしてきた。しかし、実は、そんな必要はないし、むしろ「平等である」と信じようとすることが、仕事や人間関係で無用のストレスを溜めることの原因だと気が付いた。
なぜなら、「人は平等である」と信じていると、「平等である」はずなのに、手に入るものは「平等ではない」という現実が受け入れられなくなるからだ。
不平等は悪ではない。平等こそが悪なのだ!!
シャルル・ジ・ブリタニア『コードギアス』
コードギアスに上記のような言葉が出てくる。この言葉の前後の文脈や語った本人の思想は横に置くとして、言葉の意味はこれが真実なのだと思う。
本当は平等ではないのに、平等だと妄信して、事実を見ないことが、逆に問題を生むのだと。
こんなことを書くと差別主義と思われるかもしれないが、そうではない。
私が言いたいことは、人間は不平等だから素晴らしいということだ。
不平等、つまり、人によって出来ることと、出来ないことがある。だからこそ、人は他人と繋がり、一緒に歩むことができるのだ。全てのことを自分一人で完ぺきにこなすことができたら、そこに他人は必要ない。他人がいなければ、確かに気楽ではあるが、誰かと何かを成し遂げたときの歓びや、お互いに理解しあったときの愛情を感じることはできないだろう。
学生の頃、文化祭でクラスメートと一緒になって一つの劇を作り上げた達成感、仕事で同僚と一緒にプレゼンを成功させたときの高揚感、愛する人と結婚して家庭を持ったときの幸福感。
生まれつき不平等で欠けた存在であるからこそ、他人と共に歩み、他人と共に何かを成し遂げる感動を人生で得ることができるのだ。
そう考えると、「平等」という幻想を抱いているより、「不平等」という事実を生きる方が何倍も素晴らしい、そんな風に思わないだろうか?





