※この歴史編纂はLiberという国を☆、♧、〇の3人で立ち上げてからの軌跡を記したものである。詳しくはLiber用語及び中の人たちを参照。
2021年7月某日、第3回国家戦略会議「ユグドラシル」開催。既成概念の話は続く。
☆「実はこれは昔から思ってたんだ。」
♧「うん。」
☆「なんで学校では嘘を教えるんだろうなって。」
♧「嘘ってのは、何に関しての嘘?」
☆「だから、僕の答えは2Hだって言ったじゃん。」
♧「ああ、1+1の話?」
☆「いや、全部。」
♧「全部?」
☆「自分たちが認識できる範囲の答えしかないじゃんって話。」
♧「いや、それは、そうだな。」
☆「でも、それは、正しくないだろ?っていうさ。」
♧「いや、でもさ、学校が教えてくれるのって、人の道筋とかじゃなくて。」
☆「それはわかってる。」
♧「学問って範囲で言ったら間違っちゃいないぜ。」
☆「数学的答えだろ?だから。」
♧「所詮、テストの点数を取るためのものといえば…。でも、テストの点数なんて自己証明にしかならないからな…。」
☆「言い換えれば、(学校は)既成概念を教えるところなの。」
♧「そりゃ、そうだな。」
☆「だから、学んだことは、全て既成概念ってことになる。」
♧「うーん、既成概念なのかな?歴史的事実とかは、既成概念というのかはわからないけどね。」
☆「それは、表現の仕方の問題な。歴史は勝った人が書いた…」
♧「まぁ、その歴史そのものって話になるとな。でも、そうすると、うーん、科学とか数学とか物理って…。」
☆「だから、僕が言ったじゃん。」
♧「それって、学問の捉え方の話の気がするけどな。」
☆「ふふん(笑)」
♧「え?でも、難しくない?」
☆「難しいよ。答えはない。」
♧「でも、逆に言ったら、なんでも良いだと困るし。」
☆「つまり、それが人間の限界だよ。」
♧「人間の限界、ねぇ…。」
学校が教えていることが嘘なのかというと、何に対する嘘なのかとか、人間の認識がどこまで可能なのかとか、それぞれの人間の個体差とか、ややこしい話になるが、私は学校で教えることは、考えるためのたたき台くらいに思っておいたら良いのではないかと思う。
日本の学校教育の場合、学校で教えることを、「正しい」こととして教える傾向があるため、学校で習ったことを「正しい」と鵜吞みにして、思考を止めてしまっている人が多いかもしれない。
しかし、正しさとは相対的なものであり、何を「正しい」と自分が採用するかは、個人の自由である。だから、学校が「正しい」ということが、自分にとって「正しい」のかを、本来は個人個人が考える必要があるのだ。その考えたことと中から導き出した自分なりの考え、言い換えれば自分の哲学と言ってもいいだろう、それが自分の人生を支えていくのだ。
だから、学校で習ったことというのは、自分が様々なことを考えるための材料のひとつくらいに思っておくくらいで、ちょうど良いのではないだろうか。





