「察しなさい」
「言わなくてもわかるのが普通でしょ」
日本文化は「察しなさい」文化ともいえるでしょう。
いちいち言葉にしなくても、相手の心情を想像して、相手の望みを先回りして叶える、それが日本人にとっての美徳であり、そういう人を日本では「良くできた人」として賞賛してきました。
逆に、いちいち「何をしたらいいですか?」「どうしてほしいですか?」なんて尋ねるのは野暮というもの。
しかし、現代においてこの「察する」ということは本当に可能なのでしょうか?
「察する」という文化が日本に育った大きな要因には次の二つがあります。
① 日本が海に囲まれた島国であるため他国との交流がほとんどなかったこと
② 村という狭い集団の中でほとんど変わることのない構成メンバーと、生まれたときからずっと一緒にいるという生活様式だったこと
要は昔の日本人の生活では、自分たちとは異なる価値観の触れる機会がなかったために、村などの集団を構成するメンバーの価値観がほぼ均一でした。
その上、集団を構成するメンバーの入れ代わりはほとんどありません。同じ人と人生の大半を一緒に過ごすことになるわけですから、それは他人が思っていることを想像しやすいですよね。
このような独特の風土が日本の「察する」という文化を育み、また機能することを可能にしていたのです。
けれども、現代はどうでしょうか?
小さい頃からインターネットや書籍などに触れ、自分が所属する集団以外の価値観にたくさん触れる機会があります。だから、各個人が持つ価値観は、昔の日本とは比べものにならないくらい多様化しています。
それに加えて、家族でも村でも会社でも人の出入りが多くなっています。今では、転職・転居・結婚・離婚は珍しいことではありません。例えば会社などの同じ集団に属していても、相手の人となりや育った環境がわからない、なんてことは珍しくありません。
そのような環境の変化があるため、昔のように良かれと思って「察した」ことが、実は相手の望みとは違っていた、そんなことも往々にして起こようになっています。
だから、今の日本では闇雲に察しようとしてはいけないのです。
「察する」前に、まず自分が「察する」ことができるほど相手を良く知っているだろうかと自問してみましょう。
その上で「察する」ことができない相手なら、勝手にあれこれ想像して「良かれ」と思うことをするのではなく、素直に相手に必要なものを聴いてしまいましょう。
そうすれば、少なくとも相手の望むものは提供できます。
相手のことを「察しよう」とするとき、その目的は相手と良い関係性を築くためでしょう。
そうであるなら、相手の望みをかなえることで、その目的は十分に果たせるはずです。
だから、わざわざわ「察する」という方法にこだわることはない、そんなに思いませんか?



