失った悲しみは幸運の証 【DAY103】

※この歴史編纂はLiberという国を☆、♧、〇の3人で立ち上げてからの軌跡を記したものである。詳しくはLiber用語及び中の人たちを参照

 愛する人、愛する動物、愛する物、愛する仕事、愛する環境、それら自分が愛したものを失ったとき、人は悲しむ。

 その悲しむことが、つらくて苦しくてしかたがないという人がいる。

 でも、失ったときに悲しめるということは、情熱を持って愛するものに出会えたという幸運の証でもある。

 思い返してみて欲しい。

 パートナー、家族、クラスの友達、部活の先輩後輩、「おはよう」と声をかけてくれる近所のおじさんやおばさん、よく行くコーヒースタンドのバリスタ、会社の同僚や上司、ジムで同じ時間のヨガクラスに通うあの人などなど。

 人だけ考えても、生まれてからこれまで、たくさんの出会いがあった。そこに物や仕事、趣味、動物なども入れたら、あなたが生きてくる中で出会ったものが、いかに多いかがわかるだろう。

 その中で無く(亡く)したときに、悲嘆にくれて、涙を流せるものが、どれだけあっただろうか?

 ほんとんどのものは、無く(亡く)しても、「仕方がない」と諦められるか、失ったことに気が付かないかのどちらかだ。

 例えば、ある程度の年齢になれば、訃報を貰うことも多い。会社の得意先の人や高校時代の友人、遠縁の親戚などなど。その中で相手が亡くなったことに衝撃を受け、あなたに深い悲しみと悲嘆をもたらす人は何人いるだろうか?

 もちろん、誰かが亡くなれば悲しい。

 けれども、しみじみと哀しく、涙がこぼれ、日々のちょっとした隙間に思い出しては、また涙を流すような相手は、そう多くないはずだ。

 失って哀しめることは、実は人生の中でそう多くはないのだ。

 なぜなら、自分がその対象を愛さなければ、深い哀しみを感じることはできないから。

 だから、意識しなければ流れ去ってしまうたくさんの出会いの中から、失って哀しめる対象を見つけられたことは、それだけで幸運なのだ。

 そう考えたら、失った哀しみにも、愛しさを感じないだろうか?

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